まず、存在する単位に関しておさらいをしてみる。
広辞苑によるその言葉の意味を探ってみると・・・
“距離” |
@へだたり。間アイダ。
A2点を結ぶ線分の長さをその2点間の距離という。
『広辞苑より』一部要約 |
“重さ” |
@おもいこと。また、その程度。
A地球上の物体に働く重力の大きさ。物体の質量と重力加速度との積に等しい。重量。目方。
『広辞苑より』一部要約 |
では、
“時間” |
@時の流れの2点間(の長さ)。時の長さ。
A俗に、時刻Aと同義。(時刻:A時の流れにおけるある一瞬。時点。)
B空間と共に人間の認識の基礎を成すもの。時間@と時刻とを併せたような概念。
『広辞苑より』一部要約 |
これをして「時間」を推理することができるだろうか。時間という観念の無い人物に見事に説明できるだろうか?
いや、説明しないまでも、”時間”と名づけた意味を伝えられるだろうか。「時間」という概念を用いた周辺事情は
伝えられてるかもしれない。
「時の流れの2点間の長さ」であるなら、長さ=距離なので、「時の流れの距離を”時間”という」という説明になる。
重さも距離も、その純粋な立場を他の単位を用いること無しに言い表しているにもかかわらず、「時間」に関しては他の単位を
用いて説明している。
しかも、時間の概念を言い表そうとしているだけで、単位としての役割を明示していない。
ところで、「時」とは・・・?
“時(じ)” |
@月日のうつり。とき。
『広辞苑より』一部要約 |
これもまたお粗末である。「月」や「日」は独立した単位である。
距離を説明するのに
「センチやメートルなどの移動した軌跡」などと言い表してよいだろうか?
”時間”に関してはまだある。広辞苑の注釈として・・・ |
ア:〔哲〕一般に出来事の継起する秩序で、不可逆的方向をもち、前後に無限に続き、
一切がそのうちに在ると考えられる。
宗教的には永遠から生じ永遠に帰するとされ、有限の仮象である。
これをプラトンは永遠の動く影、アリストテレスは運動の帯びる性質とし、
アウグスティヌスは時間の三様態、過去・現在・未来を意識の三様態、
記憶・知覚・期待に還元した。近代になって時間は客観的規定と見られたが、
カントは時間を空間と共に現象を構成する
主観の直観形式と考えた。これに対し、弁証法的唯物論では物質の根本的な存在形式であるとする。
ベルクソンは意識の直接的な流れとしての純粋持続を、ハイデッガーは「現存在」の存在構造としての時間性を、
時間の根源と見ている。
イ:〔理〕物理系の現象の経過を記述するため導入される量。物理学から見て最も基本的な性質は、時間の一様性、
つまり物理法則は時間の原点のとり方によらないという性質である。この性質からエネルギー保存の法則が導かれる。
また光速不変の原理が物理的な時間の尺度となる。
『広辞苑より』一部要約 |
なんとももどかしい限りである。
そろそろ、結論を述べるとしよう。
天文学的、宇宙学的にはビックバーンの仮説の中で時間の始まりを定義している。
つまり、宇宙の始まりが時間の始まりとしている。それからずっと、戻ることの無い時間の時計が動き出した。
そこに大きな「時間」の定義のヒントがある。
アウグスティヌスは時間を意識の産物としている。カントもベルクソンも言葉を変えながら、時間の意識論を展開している。
ハイデッガーは窮して「時間は時間性をもった存在である」を説いている。
時間。これほど学者を悩ませている存在はあるだろうか。時間という観念の存在をさまざまな学問が利用し、
活用しているにもかかわらず、時間そのものの定義が曖昧である。
そもそも、「時間」に限らず、「距離」や「重さ」もある種の自然界の現象を表記している記号であり、
概念であることに変わりは無い。
しかし、人類は時間という言葉、概念を生み出しているにもかかわらず、その解説が完成していない。
距離がメートルやキロメートルで「或る2点間の量」を表し、重さが「或る物質の質量」を表すように、
時間も必ず何がしかの量を計測しているに違いない。
では、何の量を計測しているのだろうか。
人類がまだ図りえていないと感じているものが、実は、時間の表す”量”の対象であることに気づいた。
時間が示す対象とは、「命」である。決して戻ることの無い、一方向の継続する存在。生命である。
「不可逆的方向をもち、前後に無限に続き、一切がそのうちに在ると考えられる。」のが時間であり、生命である。
このことは、歴然として存在する現象の説明を整理しただけの事に留まらない、画期的な定義であると考える。
アインシュタインは時間の歪を解明したのでなく、生命の神秘を解説したのである。
普段でも口にする、「時間が無い」「時間を無駄にした」といった言葉は「命が無い」「命を無駄にした」と言い換えても、
なんら違和感が無いと感じないだろうか。それも、時間=生命の証となる。
感覚的に、感情的に、そして意識化で時間と生命の関係を「知っていた」のである。
しかるに、辞書にする提示していない。
そこで、提案したい。
“時間” |
@命を計る単位。
または
@命の量を示す単位。 |
広辞苑でも、他の辞書でも、そろそろ、こう示すべきではなかろうか。この一行を添える時が来たのではないか。
このことで様々な学問での発想は格段に広がるであろう。
文学も学問の仲間に正式に参加できるようになる。何しろ、命を扱う最も歴史の長い学問が文学である。
時間=生命の構図で、「愛の方程式」「暮らしのベクトル」が明示できるようになる。かもしれない。
長く生きた命の方が短い命よりも優れているかは分からない。単位とはそれらの主観的観点を省いた、
客観的に比較できる、「単位」だからだ。
もちろん、単位であるので「命」の優劣を測るものではない。
聖域に存在する「命、生命」に客観的な観察を、社会的批判なしで語れる事にもなる。医学会では、
これからさらに必要になる言葉の定義であると思う。今、命を語る時には、多かれ少なかれ個人の主観(価値観)を
除外視して語れない。
その事にも、ある種の人道的で客観的な視点を取り入れやすい事にもなろう。
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