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<逸話1> 「究極の偽者」 

以前、宗教と科学の一体を模索する意味で、トーク番組を企画し、数学者の広中平助氏と瀬戸内寂聴さんで討論してもらった事がある。
互いに、その道で頂点に立つだけの事はあり、各々が遠い距離に思える「世界」に興味を抱いていた。科学は、その解明できない現象の糸口として、宗教的経験値を期待し、宗教はその教えの奥に、科学を感じていたのだろうか。その時に広中氏は言った。
「王貞治とまったく同じ動きをするロボットを作れたら、ホームランを打たせる事が出来るだろう。しかし、王選手にものすごく似たロボットはいずれ出来るかもしれない。しかし、王貞治とまったく同じ動きと材質を作った途端、きっと本人とはまったく違うモノになっているだろう。」
この言葉の示唆するところは深い。物事の本質は、科学の進歩に伴い漸近線を描いて接近するだろう。しかし、その線は決して一致しない。



<逸話2> 「三つの事実」

3人の村人が、家の屋根の上で風に揺らぐ旗を見て言った…

一人目の若者が言った、
   「旗が動いているのが見える」

二人目の人が言った、
   「風が吹いているのが見える」

そして、三人目の老人が言った。
   「それを見る人の心が動いているのが見える」

一つの物事、出来事にも、三人三様に映る。
今、目の前にある事実が一つに思えても、
一つの事実だけではない様だ。



<逸話3> 「無意味の意味」

ある人が、路傍にたたずむソクラテスに言った。
「哲学は生活の何の役にも立たないじゃないか」
ソクラテス曰く、
「太陽の熱はタバコの火をつけるのに便利ではない。
しかし、それは決して太陽の欠点ではない。」

宗教と科学、そして哲学の距離は、そう簡単に埋まりそうもない。

                   2003/10/14 東京・世田谷の自宅にて
                            ヤン・カワモト)
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Dalai Lama 的宗教逸話体験

■ダライ・ラマ法王■
〜宗教はある意味で哲学であるという仮定で宗教と科学を考える考察〜
『 3つの動くモノと太陽の意義 』