「常識を失った者たち」 | ||||
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〜〜 失望と希望に関する考察より 〜〜 | ||||
2004年6月28日・作 | ||||
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片目を失った賢者が見知らぬ町に差し掛かった。 町の皆々は、片方の目の無いカタワのその見知らぬ男を見ると、 皆、顔を背けた。 嫌ったりしたのではなく、それが彼らにとっての 精一杯の「気遣い」だった。 そして、誰も声をかける事もなかった。 それも、気遣いだった。 |
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町の中心を通る頃には、初めその視線を不快に感じていた賢者も その「気遣い」の歓迎に慣れてしまっていた。 腹を立てる事も、忘れた。 |
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町外れの川のほとりに差し掛かると、 岩の上に腰を下ろしてる羊飼いの青年に、出くわした。 青年は人一倍の好奇心と探究心を持っていた。 その青年には、研究と探求こそが人生だった。 賢者の顔をじっと見つめて尋ねた… |
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「気の毒に、貴方の目は片方しかないのですね。」 |
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賢者は不愉快に思うどころか、 「カタワ」の自分への、必要の無い気遣いがようやく取れた事に、 むしろ、深く安堵した。 |
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羊飼いの青年は続けた、 |
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「それではさぞかし不便でしょう。」 |
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賢者は答えた、 |
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「どういたしまして、私の右眼は外界を見つめ、 つぶれた左眼は私の内側を見つめている。 君はどうやって君自身を見つめているのかね。 たいそう不便な話じゃないか。」 |
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そう言うと、面食らった羊飼いの青年を後にして、そのまま歩き出した。 青年は、賢者が去っていく後姿を黙って見送った。 その青年は、果たしてその話の真髄に気づいたのか、 賢者が橋を渡り終える頃だろうか、 そばに落ちていた錆びた釘で、その左眼を突き刺した。 |
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それから30年の歳月が流れた。 |
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羊飼いの青年がその後、 真の自分を見つけることが出来たのか、 果ては、賢者となったのか、 例の片目の賢者の耳に届くことは、無かった。 |
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再び片目の賢者がその町を訪れた時には、 すでにあれから、40年の月日が流れていた。 |
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その町の入り口に差し掛かると、 例の大きな石の上に腰掛ける年老いた羊飼いの男がいた。 その、うつむく顔を上げると 両眼がつぶれた、めくらの男だった。 年老いた片目の賢者は聞いた、 |
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「君はなぜ両目を失ったのだね。」 |
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めくらの羊飼いの男は答えた。 |
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「自分をよく見たくて、片目をつぶしたが、 もうちょっと欲張って、もう一つの眼もつぶしたんだ。 でもね、ちっとも自分を見つめられやしない。」 |
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年老いた賢者は自分の言葉の軽率さ、愚かさを知り、 その年老いた羊飼いに何も伝えずに、黙って町を去った。 |
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めくらの羊飼いの男は、 両眼を失いながら、賢者が再び現れるのをじっと待っていた。 是非、尋ねたい事があった。 しかし、その時の人が、彼の待ちわびた片目の賢者であることすら、 両眼を失った羊飼いの男には、知る由も無かった。 |
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常識で考えれば簡単な道理が、 学識を追求する者には、それがとてつもなく 難しい道理に見える事がある。 えてして、簡単な事で判断を誤る事がある。 それは常識にしてみれば「簡単」なことではあっても。 |
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その羊飼いの男が、果たして、片目の賢者に何を質問したかったのか。 それは、常識で誰にでも分かる、至極簡単な事柄であったことは、 誰にでも分かる常識である……。 |
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この賢者と羊飼いの出来事は、 かのデカルトが「我思う、ゆえに我有り」と主観主義的自我論を唱え その以後、C.H.クーリーによって”人間の自己は、他者との交渉から生まれる。 だから、「我々思う、ゆえに我有り」である”と、 自我のあり方を「鏡に映った自己」(looking glass self)という概念で表す考え方を誕生させる、 ずっと以前の事であった。 |
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[完] |
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HIRO |
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★注★ 本文、及び注釈などの文面中に不適切な表現がありますが、原文の表現を尊重し、そのまま掲載しております。 | ||||
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