『 砂漠を見た男 』 (一九七八年執筆)  家の近くの繁華街の歩道に男が立っていて、水のほんの少し入ったガラスのコップを右手にしている。例の砂漠を見るためにいつもの場所にやって来た。  真夏の、熱い昼である。立ち止まるには最悪だが、砂漠を見るには気温と湿度は最適である。男が手にしたコップには、4分の1にも満たない水が入っている。男はそのコップを顔の前に持ってくると自分の方に向け、水がこぼれ出ない擦れ擦れまで傾ける。両手でそっとそっと、互いの震えを庇い合いながら。そして右目をそのコップの縁に近づけ、水面を覗き見る。水は今にもコップの縁からこぼれ出しそうである。しかし、その際が最適の瞬間なのだ。そのわずかなコップの中の水面の向こうに、透き通ったコップの底がある。コップの底は透き通っているが、その向こうの像は底に出来たガラスの歪で良くは見えない。この場合、必要もない。  さらに、じっと見ている。徐々に目を細め、左目は閉じ、コップを覗き込んでいる右目(注:効き目であれば左目でも構わない)は水面を確認できるぎりぎりの薄目の状態にする。次第に右目のまぶたは小刻みに痙攣し始めるはずだ。そうなれば、ここまでの過程に間違いないことが判る。コップの縁から微かに湾曲してこぼれ出しそうな水面の際から右目の瞳の表面までは、瞬きの際の睫がピタリと収まる距離が許されているのみ。  ここまで来ればあと一息である。水面の向こうにコップの底、その先には頭上に輝く太陽がある、ようにする。ここが重要である。それらの条件が揃うと一応、そのコップの底に砂漠が見えてくる。ほんの一瞬間、薄目の状態で蜃気楼のように浮かび上がってくる。目を閉じる一瞬前の刹那の瞬間に開ける視野の向こうに見えてくるコップの中の世界。ほんの一瞬のことである。しかし、薄めの具合で何度もその一瞬を味わえる。  男は、その砂漠の風景に気を良くする。  ガラスのコップと多少の水があれば手軽に砂漠を見ることができる。ただし、薄目、コップの水面、そしてコップの底の三点の延長線上に如何にして頭上に輝く太陽を配置することが出来るのかというちょっとした技術は必要である。しかし、そんな些細な現実も気にならないほどに、コップの中の砂漠の存在は貴重である。  とにかく男はこのようにして砂漠を見た、ので、この快感を他の人に分け与えようと、必死に流布して回る。ところが、コップの中の砂漠の話をして回ると、皆は既に知っているのである。男が知らない間に、世間ではすっかり周知の事実になってしまっていた。それを知らしめた人物は、だれあろう、男の無二の親友だった。  ところで、親友の男はそんな良いことを知っていても今まで教えてはくれなかった。そればかりか、世間の誰も今さら実際に試してみようともしていない。「あたりまえ」という合言葉の下にその事実は既に、既成概念にまで化身していた。  誰しもが知っている。  誰も疑おうとはしない。  必要も感じていない。  しかし皆の心のどこかには「もし自分に見えなかったら」という恐怖の存在をその根源に潜んでいるのを潜在的に感じているのかもしれない。自己防衛本能による現実回避?「コップで砂漠を見る方法を考え出したのは自分が最初である」 と、男は親友の男に向かってさらに強調する。人に教わっていない以上新発見と「同等の価値はある」とも思った。(もっとも、その「価値」とは「気休め」という言葉に限りなく近いところのそれである。) しかし、親友はその男の言葉に頷くでもなし何食わぬ顔でコップを覗いている。相手にしていないという風である。  男にしても、余り強調しすぎるとむしろ孤立していく危険もあったので、ここはひとまず親友の横で黙ってコップを覗き込むことにした。こういう時は、ものを多く言った方が端目には虚像に映ることは知っていた。  「砂漠が見えるね。凄いな、凄いね。」  それでも、やはり自分は本当に砂漠を見ているのだと誇示してしまう。きっと親友は自分と同じようにコップを覗き込んではいるが、きっと砂漠など見えてはいないんだ、と男は信じていた。親友は、「見える」のは当然とばかりに自分と同じ格好をして誤魔化しているだけなんだ。それでも、第三者からは自分と同じ格好をして映るから、親友がポーズをしているだけだとは誰も考えない。  コップの中の砂漠は確かに誰にでも、何処ででも手軽に見れるけれども、実はもう一つ重要な要素が必要とされる。それは至って簡単な事ではあるが、非常に勇気のいる事である。  つまり「疑いを持つ」という事だ。親友にはその「疑問」のただ一点が、確実に欠けていた。簡単ではあるが、当り前に見えるものではないのである。端っから疑いを持たない様な奴に、コップの中の砂漠を見られる訳がない。 【 完 】         Copyright 2000 (C)office KAWA