『斎寓路君乃死』  僕の友達の一人が彼である。彼の名を斎寓路良香という。とても古風な名前である。名は体を表わすと言うが、斎寓路君はとても、そんな古風な子ではない。どちらかというと、背の高い痩せ型の、おっとりした感じの子である。もう、十八だというのに髪には櫛一つ入れず、何時もボサボサ頭である。無精であったり色気がなかったりという訳ではなく、これが斎寓路君の好みなのだ。  彼は何時も、可笑な事をやる。僕の家を訪れるときでも『五円ください』と、言って玄関に入って来る。僕は彼の事を良く知っているので間違いはしなかったが、母などは、乞食と思い、五円どころか十円を恤んだことがある。彼が何時も、ボロボロの服を着ているので、てっきりそうだと思ったのだろう。靴だって、履いているというよりは引きずっているのだもの。彼は『ごめんください』と、言おうとしているのだが、口が縺れて、どうしても『ゴエンください』としか言えないのだ。いや、それ以前に、彼は『五円ください』と覚えてしまったのかもしれない。斎寓路君の場合は、兎角そうであった。  斎寓路君は前科一犯の犯罪人である。まだ未成年者であったり、彼自身の特別な事情もあることで、実際には「前科」などは無いのだが、調書まで取られ書類送検されたのだから、やはり「前科一犯」である。 冬の日。斎寓路君は、突然夜遅く外出するようになった。散歩にしてはおかしいし、とても不思議だったので斎寓路君のお母さんに聞いてみた所、実は、斎寓路君は毎晩お風呂に行っているのだと言う。僕は前よりも、一層不思議に思った。斎寓路君はお風呂が嫌いな子である。  そんな或る日、斎寓路君が僕を訪ねて来た。何か、面白い事があると何時も僕の処に来るのだ。彼は、自分は何時もおフロに行っていると僕に話した。とても良い事だと言うと、斎寓路君は、にこりと笑い、  「違うんです、」 と、言い返した。  「ぼくはそうではなく、いつもいいことをしているのです。」  斎寓路君は、とてもにこりとして僕に囁いた。  「女湯を覗き見しているんです。」  僕は直ぐに彼の言う通り、とてもいいことだと感じたが、そんなことに賛成すれば、やはり人道上いけないと思い、  「それはとてもいけないことだよ!」 と驚いて見せた。僕のその声が斎寓路君にはとても酷しかったらしく、彼はひどく塞いでしまった。僕は彼を慰め、二度とそんな事をしてはいけないと付け加え、彼を帰した。  結局の所、斎寓路君は其からも、毎晩お風呂に通った。一度、彼がコンクリートの塀を伝い、女湯の屋根によじ登り、天井の窓からその中を覗いているのを目撃したが、そんな斎寓路君を大きな声で咎めるのも、寧ろ僕の方が恥ずかしくて出来なかった。それで其は其のままにしておいた。  其から一週間もしない内に、斎寓路君は警官に連れて行かれた。でも決して、彼が覗き見している所を現行犯で捕まった訳ではない。斎寓路君はとても軽率な子なので、僕以外の人にそれを言って回ったからだ。覗き見は、普通、現行犯でなければ罰せられないのだが、斎寓路君が警官の訪問を受けた時、何故か近所の目撃者が次々に現われ、その数が余りに多い為、現行犯と同等の効力を持ったのだ。それに、斎寓路君は初めから、自分の犯行(?)を決して否定などはしなかったのだが、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、法的に罰することが出来ないので、目撃者などの、それに代わるものを裏付けとして必要だったのだ。でも、僕を含めてそんなにも多くの目撃者が居ながら、よくも今日まで明らかにならなかったものだと思う。関心する。  その後、彼に会って斎寓路君自身の心境を聞いてみたが、  「十分に見たから、もういいです。」 と、とても可笑な答えをした。警察官の前でも同じことを言ったそうだ。警察官は笑って斎寓路君の頭を二三度軽く叩くと、「そうだろう、あんなもの。」と、言ったそうだ。そんな事から、斎寓路君は、とても軽率な子であり、前科一犯の犯罪者なのだ。  斎寓路君の友だちは、とても彼に似ている。僕は斎寓路君とは違う方向に通っているが、朝、駅のホームでよく彼に合うのだ。勿論、彼の友だちも一緒だ。みんなは肩を下げ、少し前屈みになって、其でいて顔は正面を向いて、身体全体で波を打ってゆっくりと歩く。プラットホームが別なので斎寓路君の友だちとは話したことはないが、多分、声も斎寓路君と同じように、皆何処か落ち着きの無いような、ゆっくりとした口調で話すのだろう。落ち着きがなくゆっくりとしているなんて、とても変な形容だけど、でも実際、そうなのだ。何故、同じような声をしているように思われるかと言うと、其は同じような顔をしているからだ。何処となく面長で締りが無く、目は何処を見ているのか分からないような、そんな顔だ。これは同性にだけではなく、異性の場合も同じだ。だからといって、男女の区別がつかないという訳ではないが、でもやはり、同じような顔をしている、こんな言い方をすると斎寓路君達には悪いのだが、言ってみれば、一寸間が抜けたような顔だ。  勿論、斎寓路君は女の子と一緒に居ることはない。しかし、女の子にもてない訳ではない。何時もいる彼の友だちの中でも一番背が高いし、頭も切れる方だ。でも、斎寓路君は女の子のいやらしさを好まない。女の子に気を奪われるような、そんな不徳は持ち合わせていないのだ。  斎寓路君は、朝プラットホームで僕を見ると、僕に向って手を振る。僕も其に答えて、にこりと笑って見せる。でも、少し可笑いのは、その手の格好である。手首を腕とは直角に折り曲げ、其のままの状態で腕全体を上下させるのだ。そして、斎寓路君が手を振りだすと、回りに居る彼の友だちも一緒になって、まだ面識のない僕に向って手を振るのである。五六人の学生服姿の者達が、一斉に、あの可笑しな手の振り方を同じ様にやりだす。其だから、斎寓路君も、其の友だち達も、とても面白い人達なのだ。  斎寓路君は、少年マガジンや少年ジャンプよりも、少女フレンドを好む。どの頁を捲っても美人美男子ばかりが飛び出すのでとても楽しいのだそうだ。でも、彼は字を読んだことが無い。何時も絵を追っているだけだ。字を読んだら、斎寓路君はきっと其の軽薄さに失望してしまうだろう。  そんな彼に、僕はとても難しい質問をした。  「斎寓路君。小説家の中で、誰が一番好きかね。」  すると斎寓路君は少しの躊躇いもなく、  「森鴎外です。」 と、答えた。僕はとても驚いた。文壇とは凡そ縁がないであろうと思っていたのだが、とても大したものだ。斎寓路君に言わせると、森鴎外の小説は男の小説だそうだ。正に其の通りだと思った。然し、後になりよくよく考えてみたら、森鴎外の作品の多くは、少年少女文庫となっているのだ。其だから森鴎外の名前を彼が知っていたにちがいない。つまり、斎寓路君は小説家で森鴎外の名前しか(偶然にも)耳にしていなかったのだろう。其なのに、彼は僕の前であんなに鼻高々に言ったのだ。斎寓路君は、とても狡い子だ。  斎寓路君が僕の家に来た。何か良いことがあったのだろうかと思ったが、そうではなくて何か好いことを聞きに来たのだった。斎寓路君は喫茶店に入ったことが無いそうだ。そこで、喫茶店について僕に説明を求めに来たのだ。僕もそう何度も行くという訳ではないので、旨くは言えず戸惑ってしまった。其の上、余り喫茶店を肯定は出来ないとも思う。僕が、  「若者が男女でコーヒーを飲みながら烟草を吸うような場所だ」 と言うと、彼は大層驚いて帰って行った。  数日後、斎寓路君は再び僕の家に来た。  「タバコを吸ってみたいのですが。」 と、言う。先日の僕の言葉の中の「たばこ」という響きに興味を持ったらしい。僕は、未だ十八歳の彼が烟草などを吸っては善くないので、如何にして否定しようかと迷った末、良い言葉を見つけた、  「其は肝ガンになるので良くない。」  すると彼はとても難しそうな顔をして、何か一生懸命考え始めた。三十分位すると、漸く納得したらしく、  「分りました。」 と、言うと直ぐに帰って行った。一体、斎寓路君はどのように「分った」のか僕には解らなかったが、兎に角納得していった。多分、「ガン」は恐ろしいものだと理解していたのだろう。  その翌日、しつこくもまた斎寓路君は僕の家に来た。  「お酒はどうですか。」 と、言う。僕はお医者さんでもなければ、○△×●ロッカクコンサルタントのようなものでもないのだが、でも斎寓路君にとって僕は相談役と同じことなので、其の儘帰す訳にもいかず、答えを出すことにした。  「それは胃ガンになる。」  我乍ら、納得の行く率直な答えだと思った。斎寓路君は昨日と違い、意外にあっさりと其を受け入れた。  翌日。僕は斎寓路君の訪れを予知し、外出しようと思った。然し、一向僕を慕って来てくれる彼を裏切ることになるのかと思うと、はたして其も出来ず、鯣を焼いて斎寓路君の来るのを待った。  「五円ください。」  僕は、斎寓路君を二階の僕の部屋に通すと、彼に鯣を勧めた。彼は、鯣の足の一番太いのを選りすぐると、ぱくりと一飲みにして、例によって僕に相談した。  「ウイスキーなら良いと思いますが。」  斎寓路君は多様な知識の持ち主だ。しかし、お酒とウイスキーを別にする所は、やはり斎寓路君らしい。僕は、  「腎臓ガンになる。」 と、答えた。  僕は、相当いい加減な事を言ったものだと思ったが、斎寓路君の為なのだから、嘘も方便だと考えた。  其の後、二人で三匹の鯣を食べ終えると、夕方頃、斎寓路君は帰って行った。其の後で母が僕の部屋に来て、斎寓路君について大層気にしてか、色々と僕に質問した。僕は、斎寓路君の事は誰にも話す気はしなかったし、僕以外の誰にも斎寓路君を理解は出来まいとも思い、「彼はいい子だ」という事だけを繰り返して答えた。親一人子一人のことなので、母は僕の事を人一倍心配しているのだろう。  其のまた翌日。今度は、僕の高校時代の友だちの仁科君が僕の家に来た。彼とは、高校の三年間で知り合った仲だ。彼は月に二三度は僕の家に来て、何か下らない話をして帰る。彼が来た日は、大抵夕食が三人分になり、夜遅くまで起きて母と三人で話したりする。  僕は今日はまずいと思った。然し、仁科君を追い返す訳にもいかない。其に彼の冗談を聞いていると、とても時間などは忘れてしまい、退屈しない。彼は善い意味での、我が家の太鼓持ちなのだ。  彼が来て一時間程して、斎寓路君が来た。  玄関で「五円ください。」が響いた。  仁科君はひどく驚いて、「あれ、あの声。おい、御前、下に来てるの愚太郎の奴じゃないか?」斎寓路君を知っている殆どの人は、彼のことをこう呼んだ。  「驚いたな。御前、あんな奴と付き合っているのか。」  「い、いや、別に………。」  僕は仁科君のその変に台詞じみた口調にたじろいでしまった。  「『別に』って、御前。驚いたな、だって………、じゃ、なんで愚太郎の奴が来てるんだ。」  「…………。」 僕は悩んでしまった。そして、仁科君の台詞は続く。  「…………そうか、あいつめ!勝手に御前んとこに来るんだな。そうだろう!」  「うん。」  僕はとても残酷な答えをしてしまった。勿論、残酷というのは斎寓路君に対してのことだ。  「そうだろうな、あいつ此の頃生意気だからな。勝手に知らない家に通ったりするんだ。」  そう言い終るといきなり立ち上がり  「俺に任しとけ。」 と付け加え、勢んで下に降りて行った。少し、躊躇った後、僕は仁科君の行動を予知して彼を止めに行ったが、彼はもう既に斎寓路君の頭を三返殴っていた。僕は斎寓路君を庇ったりはしなかった。出来なかったのだ。仁科君や、その他殆どの人々の持っている“奴は厄介者だ”という常識が僕を駄目にしてしまったからだ。斎寓路君は、声さえ大人染みていたが、子供みたいに泣き?りながら帰って行った。  仁科君は僕よりも先に、軽やかに階段を昇って行った。僕はそんな彼の後ろから階段をゆっくり昇りながら、常識の前では何も出来ない自分が悔しかった。  仁科君と二人でまた元のように坐ると、初めに仁科君が口を開いた。  「一寸、遣り過ぎだけど、あれ位遣らなくちゃな。奴らしつこいからな。あんなのと拘わりを持たない方が善いぞ。御前、……奴等と話した事有るかよ。……俺一度有るんだけどよ、非道いっ……………、おい、どうかしたのかよ………、な、それが非道いったらないよ。何となく気味が悪いしよ。それに話してる間中、鼻水だらだら、涎がべたべた。…………だけどあいつらかわいそうだよな。なにも好きであんなになった訳でもないし、生んだ親が悪いのかな。…………クックックッ、でも無理だよな、なにの最中にそんなこと考えちゃいられないもんな。」  「…………。」  「おい、そう言えばさ、あいつの事知ってるかよ。此の前さ、此の前と言っても三ヶ月くらい前の事だけどさ、ほら、近くの浜乃湯の処でさ、覗きで?まったのが居るだろう。それ、誰だと思う…………あいつさ、愚太郎の奴だよ。えっ?……ほ、本当さ。まったく参っちゃうよな、頭が弱いのに性欲だけは旺盛なんだからな。……………でも、あんな奴等こそ、そうなのかもしれないな。男って奴はよ、誰しも痴漢の素質を持っているって言うけど、でも、普通の人が其を表面に出さないのは、『理性』というのを持ってるからだよな。一寸キザだな。」  僕は、仁科君が言っているのは『理性』ではなく『常識』なのではないかと思った。其は、真理というものではなく、殆どの人々が認めて、正当化している「常識」なのではないかと。  「まっ、そんな事どうでも良いけどな。」  「あっしには拘わりのないことです、と言う訳か。」 と、僕は仁科君に向って、斎寓路君と付き合っている僕自身の立場からの言葉として、皮肉って言った積りだった。そして仁科君の反応の如何によっては、彼の持つ常識と対決する積りであった。然し、僕の此の言葉は仁科君には、只の冗談でしかなかった。  「御前もたまには面白いこと言うな。はははははっ。」  彼がけたたましく笑い転げている所に、母が入ってきた。二人のためにコーヒーを持って来たのだ。仁科君は母に、僕の冗談でない所の冗談を反復して聞かせた。母もまた、仁科君と一緒になって笑い始めた。その時母はお盆からコーヒーを持ち上げ、仁科君に渡そうとしていた時だったので、其のコーヒーを引っ繰り返してしまった。其の事がまた、二人を笑いに誘った。其の時、薄暗い八畳ばかりの部屋の畳の上に、夕陽が窓の隙間を借りて赤いスリットを作っている辺で、常識という不条理の思考が渦を巻いて唸っていた。  三人が夕食を終えると、一階の、玄関から最も遠い部屋の六畳間の隅で、一台の18型テレビが幾色もの光を投げ掛けていた。その前に、三人が半円を画いて其の光を受けていた。テレビの光は薄暗い部屋全体を、歌謡曲のFOUR・BEATに乗せて思う存分に揺るがしていた。中央が仁科君、其の右に僕、其の左廊下側に母が坐っている。僕はもう既に眠気を催し、畳の上に横になりながらテレビを見、もう多分寝ている。と、思った時、僕は再び前と同じ眠気を催しながら起きていた。そんな事を何度も繰り返しながら、目の前は五木ひろし、にしきの明、小林麻美……と、気が付く度に変化していた。  改めて気が付いた時、母はふしだらに脚を崩していて、仁科君は其を極自然に受け入れていた。二人は明らかに僕と違う世界に居た。僕が気が付いた瞬間、其の違う世界に自分が置かれ、次の瞬間にはまた元の世界に光速で引き戻されたような感じだった。  「もう寝る?!」  今日は、久し振りに仁科君が僕の家に泊まってゆくことになっていたのだ。僕は仁科君の意思を問うような型で彼に僕の意思を強要した。  「……そうだな、…じゃ、あの、おやすみなさい。」  そして、二人は二階の僕の部屋に、ぞろぞろと向った。二人が階段を昇り始めた時、テレビの音が消され、僕が階段を昇り終えようとした時、チーンという音が一階の例の部屋から聞えた。僕は、今日もまた父に「おやすみなさい」をし忘れた。生きている僕には、死んで行った者の事などどうでもいい事だという意識があった。  部屋に辿り着くと、僕と仁科君は、何も話す事もない儘、眠りに入っていった。  結局、僕は夢を見た…、  …平野たえ子である。彼女とは高校二年、三年とクラスを共にした仲である。でも、おそらく其以外、彼女と僕との関係を立証するような事実は存在していなかった。実質的な交際は無かったにしろ、一年以上も立って急に夢の中に現われたということは、もしかして、当時、僕は潜在的に彼女を愛していたのかもしれない。でも、だからといって夢が潜在意識を表面化する世界であるというのではなく、考えてみると、あの頃僕は彼女のことを心から思い抱いていたんだと言えるだけの勇気が、今の僕にできたという事なのだ。しかし、彼女が余りにやくざな心の持ち主であり、彼女と僕との間をどうこうする以前に、二人はまるで別の立場にあったという現実が存在していた。ところで、彼女は海岸に居た。依然として、空は一面薄暗く、彼女はひねた者達と交っていた。砂の上に置かれたポータブルラジオから流れて来るEIGHT・BEATや16BEATに乗せて、彼女を含めた若い男女は楽しそうに踊っている。もう夕方近いのか、その中央ではファイアーが燃えている。僕が彼女の傍に行くと、彼女は急に僕に寄り添う。二人は踊り狂っている風景から離れると、其のまま海岸線沿いに歩いた。僕は、自分が世界で一番の幸せ者であると考えだす。平野たえ子は何時になくロマンチストになる。果たして、啜り泣きを始める。僕がその理由を問うと、彼女は、一層、僕の左腕に力強く抱き掛かると、彼女はやくざな心を棄てたいと言う。そしてまた遠々と泣き?る。僕は、そのとき弛んだ彼女の両腕から左腕を抜くと、後退りして側の小屋の陰に隠れた。彼女は多少して、居無くなった僕に気が付き、僕の名を呼んで前に歩き出す。擦れ違う土地の漁師に僕の所在を尋ねるが誰も知らない。彼女は再び僕の名前を口にしながら海岸を歩く。何故か、彼女は土地の漁師や左手に腕時計をした余所者にかぎって尋ねる。回り回って結局、彼女は僕の隠れている小屋の所に辿り着く。僕が小屋の外の陰から彼女を見ていると、彼女は小屋の戸口の前に立ち、其の小屋に向って、白痴的な口調で僕の名を呼ぶ。すると赤ん坊を背負った三十代の土地の女が洗濯をしに出て来る。戸口の向って左横にある蛇口を一杯に開きながら、砂の上に無造作に置かれて、潮風でもう既に錆びかかった白い旧式の洗濯機に水を溜める。女は彼女に目も呉れない。彼女が其の女に、僕の名前を聞かせる。彼女は、もう僕の名前以外に言葉を知らない。すると女は、一遍に彼女の事情を理解して、彼女を哀れむ。そして、女は僕の名前をプラカードに書き始める。初め漢字で書こうとするが、彼女が唯僕の名前を口にするだけなので、女にはとんと其の漢字を見つけることが出来ない。仕方なく、平仮名で書く、其の、僕の名前の印された大きなプラカード二枚を、平野たえ子は、前と後に紐でぶら下げる。彼女は、其のプラカードを下げたまま、無気力に僕の名前を呼びながら歩き始める。僕は酷く悲しくなり、まず、其の小屋の女に僕が其の名前の人物だと説明する。すると土地の人々が集まって来る。然し、彼女の捜している人の名前と発音は同じでも、漢字が違うのではないかと口々に言い出す。そして、土地の人には、其が僕だとは信じてもらえない。そこで、僕は、彼女の前に立ち、  「ほら、僕だよ。」 と、言うと、平野たえ子は何の反応も残さず、其の儘歩いてく。そして、僕の名を口にしながら僕を捜し始める。彼女の意識の中には、言葉の上の僕が存在するだけで、実存の僕は忘れ去られている。僕は悲しんだ。もう金輪際、彼女は僕を僕と判断できなくなっているのだ。彼女は、言葉の上での僕を恋い焦がれ、其の別離の悲しみを胸に抱いて、歩き去って行く。僕は其の場で、砂の上に四つん這いになって泣いている。泣いている……。彼女が僕から数千里離れていった頃、僕は僕の涙で一つの湖を造っていた。誰もそ……………。  僕が夢から冷めると、辺はまだ暗かった。横を見ると、仁科君の寝床は空っぽだった。多分、便所にでも行ったのだろう。空が青くなり始めたようだ。僕は寝付かれず、其から一時間近く目を覚ましていたが、一向に仁科君は帰って来る様子はなかった。そんなことを考えている内に、再び深い眠りに入った。眠る直前か、それとも夢の中でか、僕はさっきの夢の事をほんの一瞬の間考え続けた。僕はふと、自分が総ての点において偽善者ではないかと思い始めた。然し、少なくとも、自分は偽善者ではないだろうかと考えた時点において、自分は偽善者ではないように思えた。  翌早朝、仁科君は朝食を遠慮して帰った。母も別に勧めもしなかった。そして、その日、やはり斎寓路君は来なかった。きっと、多分、もう、果たして、然し、来ては来れないだろう。何ヶ月後でもいい、何年後でも構わない、せめて一度でいい、後一度でいいから、僕の家に来てほしい。そうすれば、僕のこの心はどんなにか救われるだろう。  あの日から三日立った夕方、僕は、近くの土手に散歩に出ようとして玄関を出た時、彼斎寓路君が道路の傍で踞っているのを認めた。僕はとても吃驚してしまった。斎寓路君はこの三日間、学校から帰ると、日が暮れるまでずっとこうしていたのだと言う。何故、僕の家を訪ね無かったのかと問うと、斎寓路君は悲し相な顔をして、  「あの人が居るのではないかと恐れていたんです。」  僕を憾んではいないのかと聞き返すと、  「いいえ、ぼくは、信じていました。」  僕は其の一言でとても感激してしまった。  僕と斎寓路君は二人して土手に散歩に出た。彼は暫く黙っていたが、急に口を開くと、とても真剣な目付きで言った。  「焼酎は飲んでも構わないですね。」  僕は思わず吹いてしまった。斎寓路君は僕に会うまで、ずっと其の事で悩んでいたのだ。僕は、どお返事しようかと暫くの沈黙を造っていると、斎寓路君はとても頓狂な声で  「チンボコガンですね!」 と、呼んだ。なんということだ。確かに斎寓路君らしい発想である。「肺」「胃」「腎臓」と、患部が身体の下の方に下りて来たのだから、当然そう考えることになるのだろう。其にしても、僕は顔を赤らめながら、  「体に悪いんだよ。」 と、言った。  「ガンではないのですか。」  「いやガンではない。」  すると斎寓路君はそうかというような喜びの顔をして走って行ってしまった。僕が呼ぶのも聞こえないらしく、斎寓路君は大層飛び跳ねながら土手を下ると、草むらの陰へと消えて行った。僕は、其の草むらの向うに、彼と彼の家族の住んでるとても貧相な平家が在るのを知っていた。  其の晩、僕は機嫌良く夕食を済ませると、気持ちの好い眠りに付いた。  其から数ヶ月後、斎寓路君は父親の焼酎を盗み飲みしていることが両親に見つかり、酷く叱られた。でも、もう其の頃には、彼は大分いける口になっていたそうだ。  斎寓路君は、とても無謀な子である。朝、彼が友達と共に電車を待っている時、プラットホームの外に身体を物凄く乗り出すのだ。そんな事を仕出す時に限って、電車が入線して来る。しかし、心配はない。彼はプラットホームの端の、電車が止まる一メートルばかり離れた地点にいるのだ。こんなことを度度おこなう。どうやら、斎寓路君には彼なりに考えあってのことらしい。というのも、彼が其をやると決まって彼の友達は皆拍手をして、斎寓路君の勇気を讃えるのだ。其が斎寓路君の狙いでもあり、彼のグループの中で斎寓路君がリーダー格でいられる所以でもあるのだ。しかし、こんなことを駅員の人達が見逃す訳がない。でも斎寓路君はこれにもめげず、月に二三度はおこなう。この駅のホームは大きく弧を画いているため、ホームの中程がいやに突き出ていて、その上、そこに駅長室があるため、入線して来る電車の運転手は電車がその地点に達しないと、ホームの先方つまり斎寓路君の立っている点は見えないのだ。しかし、結局電車は皆停止点で決まって止まるのだから斎寓路君がどうのこうのという訳ではない筈なのだが、其でもやはり電車の運転手は、決まって多少の急ブレーキを掛けるのだ。もしかして、斎寓路君はそっちの方を期待してやっているのかもしれない。他人を驚かすというのは是にしろ非にしろ、とても楽しいことだ。  それでも、或る日のこと、僕はとても冷やりとしたことがある。斎寓路君が例のようにプラット・ホームから、身を乗り出しているとき、電車は何時もの停止位置よりも少し前で止まったのだ。どうやら運転手は新米だったらしく、大層胆を冷やしていた。でも、心底吃驚したのは恐らく斎寓路君本人だったのだろう。併し、彼にもリーダー格としてのプライドがあったためか、斎寓路君は向かって来る電車を見詰めながらたじろぎもしなかったのだ。その為、斎寓路君の鼻と電車とは、十センチと離れていなかった。それでも彼は真青な顔をしながらも、友達たちの贈る拍手と尊敬に答える為、にやりと笑いながら何時もになく誇らしげな気風を発散させていた。ここのプラット・ホームは何時も人が少ないので、彼がそれをやる前に行き掛りの人に咎められることはなかった。併し、今回ばかりはそこの駅員にとても強く叱られた。そんな事が有った後でも、斎寓路君は月に一二度と、多少回数を減らしただけで、止めることを知らなかった。僕には、そんな斎寓路君がとても心配の種であり、斎寓路君は時たまそんな子であった。  この三ヶ月、僕は斎寓路君と一度も顔を合わせていない。多分、この表現が正しいのだろう。と、言うのも、彼の顔は見ないまでも、声は毎日のように聞いているからだ。  この三ヶ月の間、僕の家の近くの、と言いよりは斎寓路君の家の回りで、例の彼の友達五六人と遊んでいるのだ。そして、僕の家の前を走り抜けながら  「敵だ!敵だ!」 を叫んでいる。恐らく戦争ごっこか何かをしているのだろうけど、そんな斎寓路君の声が、毎度のように僕の驚きを刺激する。もっとも、僕にとって、斎寓路君のその言葉は直接意味を持たないが、それにも増してあの、斎寓路君らしからぬどぎつい声が、何とも言えない大きな余韻を残すのだ。斎寓路君は何時も丁寧な、そして真面目な以上に真剣な口調で話すのだが、彼のそんなどぎつい大きな声を耳にすると恐ろしささえ感じる。そして、彼は決してそんなに軽率に怒鳴ったりはしない子なのだが、この場合、寧ろ、そんな斎寓路君のあどけなさを見い出すべきでもあるのだろう。斎寓路君は確かにそういう子である。僕が彼を考える時に、美辞麗句を必要としないのも、彼のごく平凡な、この事実から来ているのだろう。  斎寓路君は将来に於いて殺人を犯す。少なくとも彼自身はそう考えていた。彼は最近になって一匹の猫を殺してしまった。例えば、それが彼に予知能力を与えた。斎寓路君は、猫を殺したということ自体には楽天的であった。然し、そこに自分が至らしめられたということで数多くの予見をした。  彼の言うことには、彼の父は以前、一個の殺人を犯しているのだそうだ。だから息子もいつか犯る。そう言われて育って来たのだそうだ。極典型的な、心理学から割り出せる破局であろう。正に人生の悲劇的な大詰である。併し、斎寓路君の父がそれにもかかわらず娑婆でのうのうと暮らしているという事実に対する解説は、斎寓路君自身からは聞かれなかった。どちらにせよ、斎寓路君は悩んでいる。  彼は本当に、殺人者の子として育てられたのだろうか。以前には、それに類した噂も、陰口もなかった。今、現在、その様な噂が流れているのも、斎寓路君自身が言い出した為であるというのが事実だ。これは明らかに、斎寓路君の被害妄想であろう。それでも、一匹の明眸皓歯な雌猫が斎寓路良香の不注意によって死んで行ったのは、事実である。  数十日が臨機応変に過ぎて行った。  僕は自分の事に追われ、斎寓路君は彼で、僕の所へは来なくなっていた。別に彼との間にどうという気まずい事が出来たというのではなく、僕が彼を嫌ったという訳でもなく、言ってみれば成行きというやつである。会うという事がさほど大した刺激でもなく、会おうと思えば何時でも会えるし、会わずにいても二人の関係が有耶無耶になるという事もないので、それで、別に会う必要もなくなったのだ。用事がなければ会わないと言うような、そんな窮屈な関係ではないのだが、それかと言って会ってどうなるというのではないし、態々無理して会おうとも思わないでいるのだ。  そんな所為か、斎寓路君の噂がよく僕の耳に入って来るような気がした。主に仁科君が伝達者だ。彼は話題がないと、すぐ斎寓路君の噂をした。斎寓路君が前よりもぐれだした−−別に元々ぐれてはいなかったのだが−− とか、時々近くの赤堤燈の軒下で、お酒やら何やらを盗み食いしているとか、将又斎寓路君が自分の父を殺し掛けたとか。仕舞いには、斎寓路君が電車に引かれて死んだとまで言い出した。流石に仁科君も、この事ばかりは、明らかな冗談の口調で言ってはいたが。でも、少なからず、斎寓路君の所在についてはここら辺では、夕食時の話の種となっていた。なにしろ色々な事をやってきたので、当然といえば当然であろう。我が家では、それでも決して話題となることはなかった。夕食時、母と二人で食事をしていても、斎寓路君の事は無言の内に、タブーであると決められていたからだ。母は、以前よく僕を尋ねて来た子が斎寓路君であることに気付いている。僕は隠す積もりはなかったのだが、母もたった一度の例外を省いては彼のことを聞こうとはしなかったし、母自身、彼が斎寓路良香であることを知っていると他の人に知られていて、猶斎寓路君を家に入れるということをしたくなかったのだ。最終的には、母は何も知らなかった、と、いうことで済ませたかったのだろう。だから、僕と顔を合わせた時でも、うっかり斎寓路君の噂話しをして、僕の口から、「家に良く来る子がその斎寓路君なんだよ」と聞かされる羽目になるのを恐れて“斎寓路君の話”を避けているのだ。でも僕は、彼が斎寓路君であることを母が知っているのを知っているし、母だって僕がそれを知っていることも承知なのだ。でも、それを知っているのを息子である僕に公言してしまい、明らかになると、今よりも事態は悪くなるので、母はそれを避けているし、僕も心ならずも避けているのだ。だから、無意識の内に「斎寓路君!」と、いう言葉が、両方のどちらからの口からでも飛び出すと、お互い、冷やっとする。  母は斎寓路君を体質的に嫌っている訳ではないし、少なくとも母はそういう人ではないと思う。然し、やはり母は普通一般の人間でいたかったのだろう。  斎寓路君と顔を会わせないで半年近く立った頃、僕は真昼間の街中で斎寓路君を見掛けた。斎寓路君が死んだという噂はやはり噂でしかなかったのだと、今頃になり確信した。感心してばかりはいれなかった。斎寓路君は異様な雰囲気の中で立っていた。どうやら、若い二人連れの青年が行き掛りに斎寓路君をからかったらしい。斎寓路君が何時になく強く反発し、それを見た行き掛りの買い物籠を下げた四十柄の主婦がその青年二人に注意をし、その言い合いを聞き付けた、これまた行き掛りの人々がその回りに集まった訳である。こうなると一番の被害者は斎寓路君から青年二人へと移って行く。実際、青年達は何も悪意でやったのではなく、日常茶飯事な冗談の積もりでやったことが、こう大きくなったので、割が合わないのは当然とも言える。  四十柄の女が、  「あんたたち、何の恨みがあってこんなことをするの。」  と言うと、青年の一人が目を伏せ頭を右手で掻きながら、赤面して言い返す。  「別に、唯一寸巫山戯ただけで……。」  すると野次馬の一人が、  「いい若者が弱い者苛めは止めろよ!」 と、何時もなら何事にも無関心相な男がこの時とばかりと正義感を奮う。するとそれに類した人々が、俺にだって、私にだって、それ位の正義感はあるんだと言わんばかりに口を揃えて青年二人を詰る。こういう場合、事態の収拾はつきにくくなる。それは白黒が余りにはっきりしているため、悪を詰る人々がいい気になる所為もある。四十柄の女はそれらを代表して言う。  「あんたたち、こういう子を苛めて、それで楽しいの。こういう子をかわいそうとは思わないの。まったく今の若い人は道理を知らないんだから。」  すると突然、斎寓路君は思い切り叫んだ。  「ばかやろう!!」  人々はその言葉の所在に唖然としてしまった。と言うのも、「ばかやろう」という斎寓路君の言葉が、二人の青年に向けられたのではなく、それとは全く正反対の立場にいる、四十柄の女に向って掛けられたからだ。少し離れた所で一喜一憂の心持ちで傍観していた僕にでさえ、どうすべきか解らなかった。恐らくその場で、今、何をするべきかを知っていたのは斎寓路君唯一人であろう。事実、斎寓路君は「ばかやろう」の余韻を残して、遠く走り去っていたのだ。斎寓路君は街中を、猛烈に、走り去って行ったのだ。  仁科君が久しぶりに僕を訪ねて来て、僕が斎寓路君と分れて二度目の冬を向えようとした日、再び斎寓路君を見た。僕の家の近くの、大通りから外れた割と静かな路地で、空には灰色の雲が全面に掛かり、陽は落ちようとしていた。初め、向うから来る斎寓路君に仁科君は気付いたようではあったが、それでも僕には、そうでない振りをした。僕はそんなに仁科君とは別に、斎寓路君に見入った。斎寓路君はといったら、彼の父や母、それに二人の兄弟と共に、一生懸命に話しながら、ぎこちなく歩いて来た。僕が見ているのに、斎寓路君は僕に気付かないのか、何の反応もしない。仁科君は黙っている。僕は見ている。斎寓路君は話している。その状態が続くまま、道の両端で奇麗に擦れ違ってしまった。当然、僕は振り返りはしなかったが、斎寓路君も僕に気付きはしなかった。彼が僕を無視したようには思えない。だとすると、僕をもう忘れてしまったのだろうか。斎寓路君は前よりも多少肥りぎみになり、だらしなくなっていた。別に、服装は以前よりまともになってはいるのだが、でも、以前の彼の方がずっときちんとしていたように思える。僕の感ちがいかもしれないが、以前より個性がなくなっていたように感じた。斎寓路君との間隔がある程度開くと、仁科君が口を開いた。  「あいつ、斎寓路だろう、」  僕の表情を伺うと、猶も続けた。  「斎寓路の家族だよな。愚太郎って感じなくなったな。何と言うか、こう、きちっとしちゃって、でも、あの一家見てると……何と言うか……この、かわいそうというか…………その、ほら…………何かこう惨めだよな。」  僕は泣き叫びたいほど悔しかった。怒りなんぞは感じないにしろ、仁科君のその言葉に、僕はとても悔しかった。斎寓路君は斎寓路君でないのだ。人は皆、彼等を一色にしてしまっている。斎寓路君は、多くのそのような境遇に置かれた者達の一人でしかないのだ。斎寓路君でなく、斎寓路君達なのだ。人の心の中にある「おなさけ」という所一ヶ所に押し込められているのだ。多くの斎寓路君達は、実際には生きてはいないのだ。人は「おなさけ」で彼等を認め、それ以外の所では彼等の存在すら認めないのだ。人は彼等を“特別”という名で呼び、特別な教育をして、特別な場所に置く。だから、人々は、  「やはりああいう人間は特別なのだな」 と納得して、特別な目で見る。人は彼等を開放しはしないで、特殊な施設なりを設けることにより、自分達の偽善性を主張する羽目になっている。  人々にとって、彼等凡てが“斎寓路君”であり、彼等凡てが“斎寓路君”でないのだ。斎寓路君達は、無難な一点の水準に絞られ、それに向って一色に塗り潰されてゆく。人々はそれを善しとしている。彼等を見かけると、人々は「かわいそうに」と呟く。一体何がかわいそうなのだ。普通の知能や様態を持って生まれて来なかったことなのか、それとも、彼等が、意志とは無関係に特別扱いされていることへなのか。人は唯斎寓路君達を哀れむだけで、彼等を理解しようとはしないのだ。僕が、斎寓路君に個性を見出すことが出来なくなったのは、斎寓路君が無難な一点に近づきつつあると考えるよりも、もしかしたら寧ろ、僕が多くの人々の仲間になりつつあると考えるべきなのだろうか。だから、仁科君の言葉にも無抵抗になりつつあるし、また、僕はそれに対することが出来るほど斎寓路君達を理解し尽している訳でもないのだ。今、この時僕は何かを言うべきなのだ。そして、斎寓路君達を仁科君にも、ほんの少し理解させねばいけないのだ。多分、そんなに難しく考えることではないのかもしれない。併し、その一言がどうしても出て来ないのだ。こんなだらしのない自分にも、熟腹が立つ。そして、とても悔しいのだ。でも、そんな僕にでも、仁科君の余りに軽率なこの言葉に向って、これ位の事は、言えるのである。  「そうじゃないんだ。」 【 完 】