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A.I.
[ 人工知能:Artificial Intelligence ]

多彩な情報を取捨選択したり組み合わせたりして解答を出す、
人間と同じような判断能力を持ったコンピューターのこと。

映画「A.I.」緊急批評 2001・6・23 初見
決して子ども作品でない大人の映画。
「A.I.」は一連のチャイルド向けスピルバーグ映画とは違う内容構成だった。
テーマとかではなく映画の作りが大人向けの表現でされていたという意味。
子供のロボットが人間になりたいと求める「ピノキオの旅」に違いは無いが・・・。
表現が意外にエロ・グロシーンがある。
この映画は人工知能ロボット完成を楽しむSF映画なのか?
前半40分位は甘いファミリー映画で、子供を病気で失いかけた夫婦が
子供ロボット「デビッド」を購入し、それを受け入れるまでの葛藤が描かれるが、
中盤は残酷シーンに急展開。不死身のロボットへの嫉妬と脅威から
巷にロボット解体ゲームが流行。残酷に展開。
セックス・ロボットやジゴロ・ロボットが登場。
これが結構説得力あり、魅力的で引きつけられる。
(前半戦の甘い表現に映画観客唖然で、すぐ後ろの客はイビキをかいていたくらい)
後半は、中国の歴史哲学的展開でいきなり2000年後となる大胆な進行。
解説本によると「自分が人間かロボットか分からないまま自分発見の旅に・・・」と
間違った解説をしていてビックリ。
少年は「人間になりたい」と、その夢を実現するために旅に出たのだ
ここから哲学的命題を持つ。
人間になりたい?!では、その人間とはどんなモノなのか?
映画「AI」は哲学的定義「人間」の究明映画だ。
この旅が、図らずも人間の「条件」探求の旅となる、展開。
これこそ、キューブリックが生きていたら鳥肌の立つ演出を見せてくれたのだろうが
意地悪だが、スピルバーグは及ばず。その意味を解しながらも説明しきる事に挫折している。
彼、スピルバーグはユダヤ人のため「シンドラーのリスト」などの
自己の人生ルーツ究明のテーマは大変心強く描かれ、
残酷なまでに人間の醜さと優しさを描ききっていた。
しかし、今回の命題はスピルバーグにとって仕事の域を出ていない様に感じる。
・・・、ところで物語は外見も皮膚の感触も感情も、そしてA.I.=学習的感情活動=愛情を
ある程度持つロボット少年デビッド(2001年宇宙の旅の飛行士の名前も同じだった)と
人間の違いはどこにあるのか。ほとんど人間に近いロボットがまだ人間でない事とは。
デビッドに何を与えれば、「人間」になるのか。
ここが正に映画の大テーマ「人間の根源、価値の発見」
この点が多くの解説書で「愛情」と表現されてしまう。
実は難しい事でなく、現代人のもっとも身近な悩みでしょ。
愛情はその引き金、モーメントになったきっかけでしょ。
さて、ママに再び愛されるために本物の人間の子供になりたいと懇願するデビッド。
デビッドはその夢をかなえてくれると信じる寓話「ピノキオ」の妖精を求め、冒険の旅を続ける。
そして、ついに命がけで「女神」を発見。遭遇。それは偶像だった。
しかし、少年デビッドはその妖精・女神に「僕を人間にしてくれ」と祈り続ける。
その時間、なんと2000年間。人類は第2氷河期を迎え全滅。
そのデビッドの囁きにようやく耳を傾けたのは、地球を探索にやってきた考古学者の宇宙人。
彼らの興味はデビッドの記憶。そこには今は絶滅した人類の生の情報と姿がファイルされている。
しかも、彼ら宇宙人が求めている解明できない難問が人類の芸術や創作や数学を思考する「感性」。
彼らにはこの実態が理解できない。
図らずもデビッドが人間になりたいと欲した「人間の条件」がこの「感性」とダブル。
デビッドは目の前に現れた宇宙人に「僕を人間にしてくれ」と懇願する。
「それは出来ない、しかし・・・」宇宙人はデビッドの申し入れを不可能と断る変わりに
意外な条件を出す。「君のママなら一日だけ蘇らせる事ができる」
デビッドが手にしていた、2000年前のママの髪の毛からDNA再生で「ママ」を復活させてもらう。
朝が来て、デビッドは夢にまで見たママのぬくもりと一日独占する愛情に浸る。
そして、生命の期限、その日の夜、終わりの時が来る。(ママの臨終)
ここで圧巻となるシーン。
「人間の条件」、宇宙的難問の「感性」の存在の解明がこの夜と共に解明される。
・・・もう、とにかく物凄い映画プロット。
生命誕生の神秘「DNA」
生命が生命であり続ける事の成長と破壊の矛盾。
細胞が自己破壊をすることで「生命」、永遠の生命輪廻を果たしている。
そのDNA生命学の論文を髣髴とさせるエンドだった。
キューブリックに、後五年長生きていて欲しかった。
そうすればスピルバーグのプロデュースの元「2001年宇宙の旅」を数倍上回る、
人間の生命と魂と宇宙との関連を究明する壮大な映画が完成しただろう。
自分の中の「私」はどこにいる?!
ポランスキー監督が映画「テナント」の中でこんな哲学的命題を弁証法で解明している。
『私の右手を切る。私は「私」と「右手」と言う。
私は左腕を切る。私は「私」と「左腕」と言う。
私は右足を切る。私は「私」と「右足」と言う。
私はへそから下を切り離す。私は「私」と「下半身」と言う。
私は首を切る。果たして「私」と「身体」なのか「私」と「頭」なのか・・・。』
ホームランロボット、王貞治ロボット製造計画!!
20年以上前、数学者の広中平祐氏とお話する機会があった。
その時、広中氏は数学を極めた結果、興味を宗教の世界に移しつつあった。
「例えば、王貞治選手(当時巨人の現役選手だった)とまったく似たロボットを作るとする。
多分技術的にはいずれ可能になるだろう。彼の仕草、癖、スイング方法、筋力をインプットして、
ロボット王貞治を作る。極めて王選手に近いロボット(AI機能を持った)を完成させたとする。
・・・しかし、そのロボットはホームランを打てないだろう。
限りなく王選手に近いロボットを作ることは出来ても、完成させた途端、それは王選手ではなくなっている。」
と、言うのである。
当時、世界的に「科学と宗教lの世界シンポジウム」が初めて開催された時期でもあった。
人は技術の革新で、様々な事が可能になるが、同時にその科学の限界に突き当たる。
それを解明するのは、「宗教」と言う「科学哲学」かも知れない。・・・と、言う事なのか。
これからの映画に新しいジャンルが誕生。「超娯楽的哲学総合芸術」
そんな延長線上に映画「AI」が存在したハズなのでしょう。
キューブリックはその事を提示したかったに違いない。
永遠を手に入れた擬似生命体「完璧なるAIロボット」が「完全に人間になろう」とした時に
計らずもその永遠を失う事によって「人間」になる事ができるという矛盾。
こんなテーマを大衆に表現する可能性を持つ映画って、凄いメディアだなと改めて感激!
とにかく、「A.I」の評論解説が余りに陳腐だったので第一印象での映画批評でした。
(緊急掲載のため、誤字脱字はご容赦ください。)
亡きスタンリー・キューブリック(もしくはクブリック)へ
敬愛を込めて・・・
YAHN Kawamoto

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